その530 系譜 2022.12.29

2022/12/29

 買った本の帯は捨ててしまう方だ。
「鍵盤の天皇」という本を読んだ。
戦前から戦後にかけて活躍したピアニスト井口基成氏の評伝である。
本の帯はもう捨ててしまったので、正確ではないが、
ピアノスパルタ教育の元祖とその系譜、といった文であったと思う。
私にとって井口基成という名は、春秋社版ピアノ楽譜の校訂者のイメージであった。
初めて春秋社版の楽譜をピアノの先生の勧めで手にしたのは小学校高学年の頃だったか。
バッハの曲集だった。他の出版社の楽譜と違って、紙がつるつるで厚い。
背表紙もしっかりしていて、立派で高級な楽譜なのだが、
ピアノの譜面立てにページを開いて置くとすぐに閉じてしまう。
 
 書の内容については読んでいただくしかないが、
「事を為そうとすれば、グっちゃんを巻き込まなきゃだめだよ。」
と周囲の人に言わしめた井口基成氏のキャパシティーの広さ、清濁併せ吞む人柄は
日本のピアニスト・音楽家教育のパイオニアにふさわしいものだったと思う。
 
 スパルタ教育は本当だったろうし、
その系譜から、ピアノの先生の前に座ると弾くことよりも、
早く先生のそばから消えようとする小さな生徒が日本各地にいたかもしれない。
でもそんな生徒の中から、練習を積み重ねてコンクールで活躍しプロになって審査員になり、
コンクールを評する芸術家が数多くいる事は、井口氏の功績の一つであろう。
 
 内幕にはスキャンダルあり、現代では考えられない業界との接触もあり、
また氏の演奏については晩学であるが故にといった評もある。
しかし書物で示唆されるYouTubeを検索してみると、
チェルニーの練習曲のクレシェンドやテンポの変化に何とも言えない趣がある。
 
 平成や令和の時代にはない人間臭さの味わえる一冊。
日本のピアノ関係の発展史がわかるだけでなく、
20世紀前半のホロヴィッツやスクリャービン、
1960年頃のアシュケナージやベルマンなどの演奏について記述があるのはもう一味うれしい。